世界遺産に登録された田島弥平旧宅と富岡製糸場に関する情報サイト

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田島弥平旧宅と富岡製糸場の世界遺産情報

富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産登録を目指している国指定史跡の「田島弥平旧宅」ですが、そもそも「田島弥平」とはどういった人物だったのでしょうか?

まずは、田島弥平の年表を見てみましょう。

・文政5年(1822)田島弥平生まれる
 田島弥平と呼ばれていますが、本名は、田島邦寧(くにやす)で、文政5年(1822)に上野国島村の田島弥兵衛(たじま やへえ、1796年 – 1866年)の長男として生まれました。弥平という名は、後年、父の名を継いで「弥兵衛」と名乗り、次いで「弥平」を名乗ったからです。

・弘化元年(1844)弥平父子奥羽などで養蚕法を学ぶ
 ここで弥平父子は、奥州などで広く行われていた「温暖育」という方法を学びました。温暖育は火気によって蚕室を暖める生育法ですが、弥平父子の場合、このやり方ではうまくいかず、さまざまな地域を渡り歩いて生育法を研究してました。そして、米沢の養蚕農家の自然育に着想を得て、清涼育の改良にとりかかりました。

・安政3年(1856)~5年 瓦葺2階建櫓付蚕室を建てて生育法の研究
 弥平は清涼育の実践のために、安政3年(1856年)に、納屋を改造して二階建ての蚕室(香月楼)とし、換気のための窓(ヤグラを屋根(屋上棟頂部)に据えつけました。こうして生育法の研究を行い、いい結果が得られました。

・文久3年(1863)清涼育の確立
 弥平は、2階建て香月楼での結果を基に、さらに改良をし、3階部分を増築して吹き抜け構造の蚕室にしました。そして、自身の居宅も2階部分を蚕室として改良し、屋上棟頂部の端から端までヤグラ(総ヤグラ)が載る形にしました。これが世界遺産登録の田島弥平旧宅です。弥平はこの2つの蚕室が完成した文久3年(1863年)にそれらを「桑拓園」(そうたくえん)と命名し、一般にこの文久3年をもって、弥平が独自の清涼育を確立したと言われています。

・明治5年(1872)島村勧業会社設立、養蚕新論出版
 蚕種を海外へ直接販売するための会社として、島村勧業会社が設立されました。この島村勧業会社は、社長が田島武平で、田島弥平は副社長の一人に就任しました。この島村勧業会社の設立は、田島武平と交流のあった渋沢栄一の勧めで設立されたもので、会社の定款などの作成にあたっては、渋沢栄一の指導を受けました。
 そして田島弥平は、この年に『養蚕新論』を刊行しました。この著書の中で、弥平は、上垣守国、佐藤友信らの先行する蚕書から学び取ったことや自身の体験を踏まえ、実践的な清涼育の手法や蚕室構造、さらには桑の栽培などについて、挿絵付きで説明していて、蚕業に関する書物としてベストセラーになりました。
 

・明治12年(1879)第1回ヨーロッパへの蚕種直輸出に同行、新養蚕新論出版
 渋沢栄一の仲介によって三井物産の協力も取り付け、島村勧業会社の第1回目のイタリア直売は、1879年(明治12年)12月に出港し、サンフランシスコ、ニューヨーク、リヴァプール、パリを辿って、翌年2月にミラノで販売されました。

・明治15年(1882)島村勧業会社解散
 ヨーロッパの微粒子病が収まり、ヨーロッパへ直輸出するメリットも無くなったので、直輸出を中止し、島村勧業会社も解散しました。

・明治25年(1892)緑綬褒章を授与される
 1892年(明治25年)10月5日、「実業に勉励し、長きに亘って養蚕、蚕種に尽瘁した功績」によって、緑綬褒章を授与されました。

・明治31年(1898)弥平没(76歳)
 田島弥平は、1898年(明治31年)2月10日に病没しました。蚕種の育成に走り続けた76歳の生涯でした。ちなみにこの「弥平」の名は、その後、曾孫の代まで襲名されました。
 
 
 

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